OldLionの備忘録

年老いたライオンは錆びない。狩りを続け、振る舞いは日々深みを増していく。 いつまでも自分を忘れず、狩りを忘れぬライオンでありたい。 そんなライオンになるための日進月歩。

臣女を読んで

吉村萬壱の臣女を読んだ。自分が敦子という女と浮気したことをきっかけに自分の妻奈緒美が巨大化し、怪物化していく。次第に家には収まらなくなり、そして糞尿を尋常なく撒き散らす妻をひたすら介抱する夫の執念を描いた作品。
 
大方のレビューにも漏れず、常軌を逸した状況の中で、それでも尚愛を貫いていく夫の様に大いに感情移入していく。
 
この小説の解説で、彼にとって、敦子や学校での職務なんかよりも、全てに増して純粋な愛の形として奈緒子を愛するということが語られている。
 
「常識や道徳という、誰が決めたのかもわからない、いつのまにかそういうルールができあがってしまっただけの、虚飾にまみれた通俗という名の世界の中で、何の疑問ももたずに生きている連中すべてが敵なのだ。彼が信じることができる相手は、唯一の家の中で満足に立ち上がることもできないほど巨大化し、汚物にまみれながら骨が成長し続ける激痛に耐えている妻、奈緒美だけなのである。」

 

だが、果たして、そうだろうか?少し僕は違和感を覚えた。
 
この小説を読んでいる最中、ずっとイメージしていたのは、カフカの「変身」だ。南京虫になってしまった自分が、家族から見捨てられ、最後には殺されてしまう物語だが、あの物語こそ、第一人称から見た奈緒美の物語なんだと、思う。認識というものは、人間の保身や虚勢のために、家族という親密な関係性すら簡単に壊してしまう。
だからこそ、主人公がひたすらに看病する様子は、第二人称として誰かに接する意味や美しさを描いたもののだと思う。
 
そもそも、愛とはなんなのか?
それは目的不明の奉公であり、他人と第二人称の関係を、人生を通して結ぶ様子であると思う。それは罪に対しての罰であるとも言える。人間がこの世で独立して過ごすという自由を手に入れ、他人とは感情的に結びつかないでいることができる。だが、誰かを深く愛した瞬間に、その人に感情的・肉体的な結びつきが生まれ、それに依存することが自分の一部になる。逆に、依存しているが故に途中でそれを放棄することは出来ない。自由を犠牲にすることで、関係性という十字架を背負うものである。
 
何が言いたいかというと、この小説では、第二人称である奈緒子への 愛=不可避 である愛着を知るにつれて、人間同士の本来の繋がりでの虚勢や自己保身のようなものに気づいていく主人公の心の動きこそが最大の焦点だと言える。結局自分も中林も、高校も近所も、人間は生きる限り、他人を欺きながら敵として蹴落としながら生きる身勝手な生き物である。免罪符として奈緒子を守る人生を選択した瞬間に、初めてその自己欺瞞の罪を「知る」ことになり、そして新しい罰を受け入れる道が開かれるのだと思う。
 
奈緒子という人間への愛着が愛なのではない。
むしろ、主人公自身が、奈緒子という二人称なしでは、憎悪や色欲の「怪物」になってしまう。それに気づくからこそ、罰を背負ってでも純粋に奈緒子にこそ全てを捧げるという関与こそが「愛」なのではないか、と思うのだ。グレゴリーザムザが叩き潰される世界では、もっと世界は単純だった。
 
奈緒子は、自分の持つ憎しみではなくて、主人公の持つ第三者への憎悪を形にすればするほど巨大化したんじゃないかなぁ。