護送船団方式とバブル
実家に戻ったので、本棚にある名著を高速でまとめまくりたい第一段は「法人資本主義の構造」(奥村宏著)である。
この本は、米国に代表される株主資本主義に対して、日本の法人資本主義は、経営者資本主義と呼ばれるゆえんを取り上げている。
まず、日本の資本主義は法人が法人により所有される株式持ち合いにより象徴される。企業が傾いても経営者は変わることはなく、一族経営を正当化する手段として用いられた。(陽和不動産事件)これが意思決定の一本化、長期的な目線にたった会社作りを促したといえばその通り。このルーツは戦後の財閥が財閥解体にあった際に、子会社の資本の安定化させるために株式を親子間で持ち会う。
戦後で外資や機関投資家が入ってくることの影響を考え、速やかな資本製作のためにも安定化はむしろ進められたが、その後「高株価経営」といって、転換社債やワラント債を用いて、安定株式同士での株価のつりあげを行ったあと、時価公募を行うという経営手法が、公募がオープンした1960年代にヤマハ楽器を皮切りに大流行した。
また石油危機による減量経営でコスト削減が盛んに行われた時、売られた株式=「法人売り」の引き受けは、顧問銀行が行った。今は禁止されているが、当時は銀行が法人の株式を取得することが独禁法できんしされていなかったのだ。
最後に、石油危機以降、特金(投資会社でなく、証券会社が引き受ける投資信託運用)や金外金(前記の現物売買)など投資信託が富裕層の預金形成手法として広まった1980年以降には、株式市場が時価総額と同じくらい投機的な乱高下を繰り返すようになっていた。結果として、先物取引の開始による相場の不安定化、会計基準の時価統一により含み損をすべて計上するために法人売りが行われたこと、そして公定歩合の引き上げにより、日本の株式市場を端緒として、バブルが崩壊したということだ。土地の価格が下がったのは、この企業の空前の好景気につられて、バンバン融資を行って株価をつり上げようというシナリオが崩れたときに、銀行が貸し渋りをおこしだしたというのが真相というところだ。
1990年代に住宅金融専門会社が破綻した時、銀行への債権放棄と代わりの銀行への公的資金の注入が真っ先に行われた。これはダイエーやゼネコンなどにも実施されたが、当然すべてを救済できるだけの余力はなく、「平成の徳政令」は大手銀行の破綻と回収の焦げ付きという傷跡を残した。著者の言う通り、有限責任のケツをまくるのは、国で、日本の株式会社は「無責任経営」だと言える。