向田邦子「あ・うん」を読んで 思いやりが必要な時代
しばらく前に小津安二郎の「秋刀魚の味」を見たのだけど、あれを見た時思ったのは、いかに日本は思いやりに満ちた国だったのだろう、と言うことだった。
嫁が嫁ぎにいくのを父が気にかけ、口聞をしてあげ、旦那が大衆娯楽に精を出すのを妻が支えていき、などなど。。一番印象に残っているのは恩師を囲む同級生の姿。そんな場所に顔だしてなんのとくがあるんだ、って思ってしまうのだろうけど、只管に恩師を立てていく。秋刀魚と言う身がしっかりした魚の中には、本当は隠しておかなければいけない腹私があって、それをみんなで必死に隠しているような、そんな作品。
哀歌の中に漂うユーモアと、溢れる善意を綴る、と言うキャッチコピーにもある通り、本当の何かを「善意」と言うもので隠していた時代(1950年代から60年代)が当時の時代を適切に表す言葉なのかもしれない。
今日はこれと合わせて向田邦子の「あ・うん」を読んだのだけど、まさにこの頃の普通の家庭がお互いの「善意」で、お互いの関係を成り立たせていたかがよくわかる。
たった一度しか生きられないんだ。自分に正直に振舞えばいいんだよ。それをみんなまわりに気兼ねして、お体裁つくって、綺麗ごとで暮らしているんだよ
これを言うのは小成金の門倉。親友の仙吉の嫁たみが好きでたまらないが、手に入らないことだってわかっている。仙吉との仲も、本当は彼女がいなくなったら全てなくなってしまうことはお互い理解している。本当は、たみと駆け落ちしてしまいたいのに全てをぶち壊すことができない。鬼怒川の旅行のシーンで炬燵の中で、仙吉ではなくて門倉の足に触れようとするけど、もう少しで触れられないシーンが印象的だったなぁ。
これは仙吉の娘さと子も同じで、自分が恋している人の元に駆けていきたいけど、家族のみんなの考えに背きたくない。これは飲んだことのない珈琲が描写に出てくる。なんだか訳のわからないものとして描かれている。
お互いがお互いに、ちゃぶ台をひっくり返してしまえたら、どんなにいいことかと思っている。でもひっくり返さない。それが家族の作法だったからだ。
この時代は、自分が直面する突然の自由にどうやって対処していいか、訳のわからなかった時代なのではないかな。実は自分に個人の好きなように生きていけるのだ、と言う選択肢が経済の自由で突然やってきて、それでもそれが自分の個人だけでは成り立たないことをよく知っていたんだと思う。このどうしようもない踊り場的な気持ちを微妙と呼ぶ気がする。
森田芳之監督の「家族ゲーム」やその後リメイクされた「家族ゲーム」も含めて、時代を超えて、この「微妙」さは確実に引き継がれている。堅実な保守性と自由を求める革新性は、時代を超えて日本のどの時代にも全然残っている。じゃあ何がこの溝をカバーしているか、と言うと各々の人たちの「善意」、それは言明できない「ルール」のようなものとして、日本の他人を思いやる文化として定着していったんではないかな。
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